普通の人々の普通のお話にドラマがある
「思いは言葉に、お話は読めるものに」の出発点
私たちが日ごろ目にする本や雑誌には、珍しい体験をした方の話や、特別な体験をした方の話がたくさん紹介されています。十五年前、私はライターとして、多くの方の共感を呼ぶような記事、多くの人を感動させるような本をつくるために取材をし、文章を書いていました。そうやって本や雑誌には、つくり手が「特別」であると認めた活動や人生が紹介され、読む人にヒントやアドバイス、共感や感動を与えていきます。そういうものなのだと漠然と思ってはいましたが、一方で、なにか大きなものが抜け落ちた世界を作っているような気持ちも持っていました。
本来、人の人生には特別も平凡もありません。どの方の人生も固有で唯一のもの、特別なものです。なのに、記事や本になって誰もが読めるものになり、のちの世代まで残るのは、一部の人たちが選んだ話だけです。殆どの方の人生やできごとは、残された人のそれぞれの想い出のなかで、切れ切れのかけらだけを残して、やがて消えてしまいます。そういうものなのかなと、もったいなさ、寂しさを感じていたのです。
考えてみれば、私たちは、親や、その世代の人たちの暮らしや人生を本当に驚くほど知りません。さまざまな想い出は、写真やフェイスブックの投稿に残っていたとしても、そのときにどう感じていたのか、心に残っているのはどんなことなのかは、誰にも伝わることなく消えていく。それでいいのだろうか、と。
だれの人生も、起こった出来事も、やがては消えていく、それだからこその美しさもあるとは思いながらも、のこしたいと思う気持ちを強くもつようになっていました。
辛さも哀しみも、思い出話として語られるときには美しい物語になっているのに。
たとえば、特別な体験や、とっておきの話、会社をつくったときのこと、家を建てたときのこと、父のこと、娘のことを、話して残しておく。それはやがて誰かの役に立つかもしれません。
「あなたのお話を聞いて文章にするお手伝いをします」、そんな見出しをつけたチラシを作ったのは、今から十五年前のことです。
有名や人や特別なことをした人ではなく、「普通」と思われている方、自分のことを普通だと思っている方の話を聞いてのこすお手伝いをしたい。できれば、読めるものにして、五冊、十冊、あるいは一冊だけの冊子にしたい。それが「私的小冊子-プライベートリーフレット」づくりを始めることになった発端です。
ただ、それを形にして具体的に進めていく力が、その頃の私にはありませんでした。フリーライターとしての収入が不安定で、新しいプロジェクトを立ち上げる余裕もなく、生活のための副業として飛び込んだ介護の仕事が、徐々に本業となっていったからです。
介護の仕事を通して
たまたま機会を得て訪問介護員の資格を取得していたことで、副業として選んだのは、認知症の方の生活を支える仕事でした。何もかもが初めてで、戸惑うこともありましたが、仲間に恵まれたこともあり、それまでとはまったく異なる、やりがいや喜びを感じるものでした。
介護の仕事を三年間すると、国家資格である介護福祉士の受験資格が得られます。私は認知症や障害者の方をケアする資格などを立て続けに取得しました。介護の世界でさまざまな現場を経験しながら、十数年経ったころにはケアマネージャーの資格もとり、大阪市西成区にある事業所でケアマネージャーとしての仕事に就きました。
介護の仕事というと、食事や入浴、排泄のお世話をすることだろうと思われるかもしれませんが、現在の介護職は、報告や記録、プラン作成、研修など、デスクに向かってする仕事も相当量しなければなりません。介護を受けるご本人やご家族と過ごし、お話をすることも大事な仕事でした。特に介護サービスの利用を始められる前には、介護計画を立てる際の参考とするために、それまでの生活や家族構成、職業歴、病歴などの話を伺うことが不可欠です。介護の職場で責任者として、私は再び、さまざまな方のお話を伺う機会をたくさん持つことになりました。
高齢の方は、言うまでもなく長い歴史を経て現在に立っておられます。出生の話から始まり、子どもの頃の話、仕事の話、結婚などに戦争や大きな災害など特別な体験談もあって、語られるお話は大抵、壮大なものとなりました。
もちろん、どの方も、聞けばどんどん話してくださるかというと決してそんなことはありません。むしろ、いきなり切り込んでいき、拒絶させることも少なくありませんでした。
ライターの経験があり、人の話を聞くことに慣れているはずの私でしたが、大阪市西成区で働き始めたときには特に苦労をしました。
西成区には、釜ヶ崎、あいりん地区と呼ばれる地域があり、それまで私が出会ってきた人たちがしたことのない経験をしてきた方や、独自の人生観をもっている方が多くおられました。
「ご家族はおられますか」「どんなお仕事をされてきましたか」と伺っても、なかなかすぐには答えていただけません。笑顔で迎えてくださっていたのに質問を始めたとたんに硬い表情になる方、「言いたくない」とはっきり拒絶される方、「関係ないやろ!」と怒鳴る方もいました。
「それぞれ、いろんな事情があってこの町にきた人ばっかりや」。そんな言葉を聞き、無理やり聞き出すことで関係が悪くなるよりはと、書類には「過去については話すのを拒まれる」などとするしていました。
しかし、ことあるごとに訪問し、通院や入院時の面会などで一緒に過ごす時間が長くなってくると、話すともなく語られる想い出話を聞くことが、思いがけず増えていきました。
語られる内容は、訳あって離散した家族の話、過去に犯した罪のこと、償った日々のこと、また高度成長期のとんでもなく景気のいい話など、正直、驚かされる内容の話が少なからずありました。
長く話したあと「しょうもない話、聞かせて悪かったな」「こんなに話したのは何年ぶりやろ」「話してたら、いろいろ思い出してきたわ」そんなことを言われ、胸が熱くなるようなこともありました。
介護の仕事を通して出会った方々のお話を聞いてきた経験を経ことで、十五年前に抱いた私的小冊子をつくりたいという思いは、より強くなったように感じています。
ライターとしてではなく、介護職として出会った特別ではない人たち、専業主婦だった人、サラリ-マンで定年を迎えた人、小さなお店を守ってきた方々の、活字にはなってこなかったようなお話のなかにこそ、文章にして残したいと思う物語がたくさんあったからです。
落ちこぼれだった私の話も少し
人の話を聞いて文章にしておきたいという気持ちは、私自身のそれまでを思い返し、そう言えばいろいろあったなと懐かしむ気持ちも呼び起こしました。
今でこそ、多くの資格をもち、リーダーとして仕事をしたり、教える立場に立ったりしているので、わたしのことをエリートだと勘違いする人もいるのですが、小学校、中学校と、私は勉強にも、学校のシステムにもまったくついていけない完全な落ちこぼれだったのです。
今なら発達障害だと診断され、適切な対応がされたのかもしれませんが、私の時代には、ただ知能が低く、理解力も、落ち着きもなく、努力ができない子どもだと思われていただけでした。親からも先生からも、怒られたり、首をかしげられたりするばかりで、その頃のことを思い出そうとしても、私には、まるで霧のなかにひとりでいるようだった記憶しかありません。
走ったり飛んだりでは、まわりを驚かせるほどの記録を出し、習っていたバレエやオルガンではそこそこの力を発揮していたこと、本を読むことが好きだったことが救いにはなっていましたが、楽しさや嬉しさを感じることは少ない子ども時代でした。
不思議なことに、その後、社会に出てからは、そのようなことがなくなり、職場ではなんでもスムーズにこなせたので、日々が楽しくなりました。何よりも、バカにされることがなくなり、私自身も自分がバカではなかったのだなと思うことができたことが不思議かつ嬉しく、さまざまなことに積極的に関わるようにもなりました。
学ぶ楽しみを初めて知ったような日々のなかで、縁ある方々からさまざまなことを教えてもらったり、学ぶ機会を与えてもらったことも幸運だったと思います。
また、自分で目標や方向を決めたわけでもないのに、たまたま職場の業態変更に応じて、塾講師の仕事や、プログラミング、文章作成などを断らずに引き受けたことがムダにならず、新しい仕事へ、次の段階へと繋がっていったということもありがたいことでした。
現在は、介護職員になるための研修で講師として勤めています。その傍らで、改めて本当にやりたかったことを本業として残りの人生を生きたいと思ったとき、十五年前に思い立ったことが実現できる状況になっていることに、いちばん驚いているのは私自身だと思います。
救いようのない落ちこぼれが、なんとか社会で活躍できるようになった体験も、きちんと残しておけば、どこかでだれかの役に立つかもしれませんね。
母の話でさえ知らないことばかり
十五年前、インタビューして聞かせてもらった話を、わずかな部数の冊子にして届ける仕事をしたいと思ったとき、手始めにと、母にインタビューを試みてみたことがあります。母が七十歳、私が四十二歳のときのことです。
数時間をかけて、生まれたときのことから話を聞いていきました。聞きながらまず感じたことは、それまで母の話を真剣に耳を傾けて聞いたことなどまったくなかったということでした。何度となく聞いてきたエピソードがあるにはありましたが、幼かったときに見た風景、戦争をめぐる話、恋愛の話、これまで人に話したことなかったという苦労話などが、しっかりと聞くことで初めて繋がり、初めて母の歴史を知り、人生観の理由として浮かび上がってきました。それによって、母と娘として、どこか近づけないまま、あるいは納得できないままだったことを理解できたことは、私にとってこの上なく嬉しいことでした。
一方の母は、話をしたことは楽しんでくれたようでしたが、できあがった文章にはそれほど興味を示すことがありませんでした。自分のことを自分で話しただけのことと思えば、無理のないことだったかもしれません。自分の話は自分では価値のあると思えない、そういう特徴があるようです。
そのときのインタビューテープが今、手元にあります。昨年、突然亡くなってしまったあとにインタビューのことを思い出し、探したものです。まだ聞く機会はもてていませんが、あのとききちんと話を聞いておいて本当によかったと思っています。聞いた話とテープは大切な宝物です。
残さなければ消えてしまう
老親の話を、あらためてじっくりと聞いたことで、プライベートな話や、当たり前の出来事の話ほど、残しておかなければ消えてしまうのだということにも気がつきました。
親の話は子どもにとっては特別ですが、世間に広く価値をもつものではないので、大切に取っておこうと思われることはありません。しかし、遺された写真が子どもの支えになるように、遺された言葉や文章があれば、時を超えて教えられたり、勇気づけられたりすることがきっとあるはずです。「普通」のものや当たり前のことは、ことさら大事に取っておこうとされない、そのことで私たちはたくさんの大事なものを失ってきたのではないでしょうか。今だからこそ、消えつつあるものに目を向け、残していくことの大切さを考えたいのです。
最近になって、出会う方にそのような思いを伝えると、それならばと、ご自身やご両親の話をと思いつかれることがよくあります。それらをひとつずつ、形にして残すお手伝いをしていく、それが今の私に与えられた大切な仕事だと思っています。